「ハチノス」と「アタリ」から考える、日本文化の<自律>と<受動>

最近、ジーンズや革靴の経年変化について考えている。

ジーンズの「ハチノス」や「ヒゲ」、革の「アタリ」みたいな細かい経年変化を名前までつけて観察し、評価する文化がある。

僕自身もその遊びがわりと好きで、ジーンズの色落ちや革靴の皺を見てニヤニヤしている。

でもふと疑問に思った。

これは日本特有の文化なんじゃないか?

そして、そのことを日本人も欧米人も、あまり認識していないのではないか?と。

この違和感から、もう少し大きな話――日本の「文化の受容」と「自律性」について考えるようになった。

日本は「細分化して再構築する」のが得意な国だ。

歴史をざっくり振り返ると、日本はずっと「外からやってきたもの」を細かく分解し、組み替えることで自分たちの文化を作ってきた。

• 古代〜中世

中国大陸・朝鮮半島から、制度(律令・官僚制など)、文字(漢字)、宗教(仏教)、美術様式を受容。それらを「和様化」し、仮名文字を整え、神祇信仰と仏教を組み合わせることで、日本独自の制度や宗教文化が形成された。

• 近代以降

主にヨーロッパ諸国(のちにアメリカも含む)から、近代法、軍隊・警察制度、教育制度、洋服、西洋音楽を導入。それらを日本の政治体制や社会構造に合わせて調整し、「日本型」の仕組みや生活様式として定着させてきた。

そして今、私たちが遊んでいるデニム・レザーの経年変化、ガーデニング、ウイスキー、ロックミュージック

なんかも、構造はほとんど同じだ。もともとはアメリカやヨーロッパで生まれたもので

1. 細かい要素に分解

2. どこに価値を見出すか言語化

3. 日本仕様で再構成

ということを繰り返している。「文化の細分化からの再構築」というのは、日本の“お家芸”と言えるだろう。

⸻それにも関わらず、「自分たちの文化だ」と思えていない。

ここで、ちょっとややこしい問題が出てくる。

日本は外の文化を細分化して再構築するのが得意なくせに、

それを自分たちのオリジナルな文化として引き受けるのがすごく苦手だと感じる。

例えばデニム。

アメリカでは「ワークウェアとしてのジーンズ」がまずあって、色落ちも「なんかいい感じにクタった」くらいに捉えられていたものが、日本では

• ヒゲ(whiskers)

• ハチノス(honeycombs)

• アタリ

みたいに、細かく名前までつけて評価する対象になった。ある意味、これは原型を超えたマニアックさだ。

革靴やレザージャケットでも、「茶芯」だの「コバのアタリ」だの、細かいディテールに価値を見出している。ここまで細分化して美学を発展させたのは、かなり日本的な形態変化だと思う。

でも、日本側の自己認識は、「本場のヴィンテージをいかに忠実に再現するか」

「アメリカのワークウェア文化へのリスペクト」のあたりで止まっていて、

「日本が作り直した“日本の文化”」

とは、なかなか言わない。

ここに僕は、日本の文化がいつまでも「受け身」に見えてしまう原因があると考えている。

文化的自律性=「自分でラベルを貼れるかどうか」

僕が一番大事だと思っているポイントはここだ。

文化的な自律性は、自分たちで自分たちの文化にラベルを貼れるかどうかにかかっている。

日本は中身(コンテンツ)を作る力や、細分化して再構成する能力は高いのに、その文化にどういう名前をつけるか、どんな物語で語るか、何を「重要」と宣言するか、といった「意味づけ」の部分を、しばしば外部に委ねてしまう。デニムやレザーでいえば、

1. 日本がジーンズやレザーを細分化し、狂気じみたこだわりで育てる

2. 海外の人間がそれを見て「Japanese denim」「Japanese leather」とラベルを貼る

3. 日本側が“Japanese denim”を知らしめられる

この「一周遅れ」の構図は、他の分野にもよく見える。

日本のファッション、ウイスキーなどが、海外で評価されてから「日本の文化」として再認識されるパターン。

物作りでも、世界最高レベルの品質は出すのに、その意味づけや物語は、ヨーロッパのブランドやアメリカのプラットフォームに握られている。

つまり、中身はもう十分“オリジナル”なのに、ラベルと物語だけは「本場」の側に明け渡したままになっている。

これが、僕が感じる「文化的自律性のなさ」の正体にかなり近い気がしている。

少し話は逸れるが、この問題はアートの領域で特に分かりやすく現れていると思う。

現代の日本のアートシーンは、基本的に

• 作品の形式

• 批評の言語

• 展示制度(ギャラリー、ビエンナーレ、アートフェア…)

これらのほとんどを、欧米近代〜現代美術のフレームワークの延長として運用している。

グローバリズムが限界まで進んだ今、そこから完全に逸脱した「別の土俵」を作るのは、正直かなり難しい。

これはある種、不可逆な状況だと思う。

でもその前提を踏まえた上で、僕が気になっているのは、

「フレームを使っていること」と

「フレームの意味づけまで丸ごと相手に任せてしまうこと」が混同されていることだ。

グローバルな市場や制度の形式を使うのは、もう避けがたいとしても、その中で

• 何を自分たちの「一次的な経験」として扱うのか

• 何を「本質的な問題」として位置づけるのか

• どの基準で「これは重要だ」と宣言するのか

までは、本来こちら側で決めていいはずだ。

でも現実には、

• 「欧米で評価されること」

• 「欧米の批評言語で語りやすいこと」

が暗黙の正解になってしまっていて、作品の内容だけでなく、「何を価値だとみなすか」という思考自体が受け身になっているのではないかという疑念がある。

話をジーンズとレザーに戻すと、経年変化文化は、そのミクロな縮図かもしれない。

私が面白いと思っているのは、この「文化の受容とラベリングのズレ」の構造が、

ジーンズの色落ち文化や革の経年変化文化の中に、ミニチュアとして埋め込まれているように見えることだ。

1. アメリカ発のワークウェア文化

2. それを日本が細分化して、「経年変化」という美学ごと再構成する

3. それでも日本側の自己認識はあくまで「本場のリスペクト」「再現」の枠内にある

4. 結果として、「Japanese denim」としてラベルを貼るのは海外側になる

ここには、文化の中身は自分たちで作り変えながら、その文化に名前をつける権利だけは外部に譲り渡してしまうという、日本的なクセがよく表れている気がする。

だから、ジーンズのハチノスや革のアタリを眺めることは、私にとって単なる「趣味」や「ファッション」の話を超えて、日本の文化がどうやって他者の文化を取り込み、どうやって自分のものにし損ねているかを考えるための、小さなレンズにもなっている。

それでも、フレームの中から自律する余地はあると思いたい

ここまで書くと、なんだか悲観的な話ばかりに見えるかもしれない。

• 欧米のフレームワークから離れられない

• グローバルな制度に組み込まれてしまっている

• 自分でラベルを貼れない

でも僕は、だからといって全部諦めるべきだとは思っていない。

むしろ大事なのは、このフレームから完全には抜けられないのだとしたら、

その中で、自分たちの側から何を“本質的な問題”として引き受けるか

という意識を持てるかどうかだと思う。

形式や市場は輸入物でもいい。その上で

• 何を「一次情報」とみなすのか

• どの感覚・歴史・違和感を中心に据えるのか

• そしてその上に、自分たちでどんなラベルを貼るのか

だけは、自分たちで決めたい。

この「細分化と再構築」と「ラベリングの自律性」の問題は、僕の美的価値観のかなり深いところにあるコアのひとつだ。

ジーンズのハチノスを眺めることも、革靴の皺やアタリを楽しむことも、単なる「モノ好き」や「オタクっぽいこだわり」で終わらせずに、

僕たちは何をどう分解し、どう再構成し、その結果を誰の言葉で評価しようとしているのか?

という問いと、セットで楽しみたい。

そして、できれば少しずつでもいいから、「本場の文化をよく真似する国」から

「他者の文化を細分化・再構築して、自分たちの言葉でラベルを貼れる国」

へと、精神的な意味で移行することができたらいいなと思っている。

そのための、小さな入口としてのジーンズと革の経年変化。

そんな風に捉えると、ハチノスやアタリを眺める時間が、少しだけ違って見えてくるかもしれない。

輸入文化を「自分たちの文化として引き受ける」ための基準と方法

ここまで、日本が他者の文化を細分化して再構築する一方で、それを自分たちの文化として引き受けきれていない、という話を書いてきた。

では、具体的にどうなっていれば「引き受けた」と言えるのか。もう少し実務寄りに、基準と方法論を整理してみたい。

① 「引き受けた状態」のゴール

まず、輸入文化を「自国の文化として引き受けている」と言うための、最低ラインの条件を三つ挙げてみる。

1. 自分たちの歴史の中に書き込めていること

「◯◯はアメリカ発の文化」で終わらず、「それを日本ではこう細分化して、どのように再構成してきたのか」という物語を、自分たちの言葉で語れていること。

2. 評価軸が“本場っぽさ”から“自分たちの感覚”へ移っていること

「どれだけ本場に近いか」ではなく、「日本で生きる自分たちの身体感覚や生活にとって実質的かどうか」で、良し悪しを判断できていること。

3. 自前のラベルや概念があること

「◯◯の日本版」ではなく、「こういう経緯で生まれた、日本なりの◯◯」と名乗れていること。ラベルの問題は、単なるネーミング以上に「誰が意味づけの主導権を持っているか」という問題でもある。

この三つがそろって初めて、輸入文化が「いつまでも本場の付属物」ではなく、「ここで生きている文化」になっていく。

②「完全オリジナル信仰」から降りる

日本人のクソみたいな真面目さは、良くも悪くも「完全オリジナル信仰」に流れやすい。

・元ネタがある以上、オリジナルを名乗るのは失礼ではないか

• 100%ゼロから作っていないのに、「自分たちの文化」と言い切るのは厚かましいのではないか

そうやって自重しているあいだに、実際にはかなり独自の変形をしているにも関わらず「ただの模倣のつもり」で自分たちを扱ってしまう。

でも、現実にはほとんどすべての文化はハイブリッドでありスピンオフだ。なので本来は、

「◯◯という枠組みや技法は輸入で、編集の仕方・遊び方を発明した部分については、もう日本のもの」

という“部分的主張”を許可するべきではないだろうか。

重要なのは、「どこからどこまでが輸入部分で、どこからが自分たちの編集部分なのか」を、ちゃんと地図として言語化することだ。

そうでなければ単なる文化の窃取や盗用と言われても仕方が無い。

自分たちの編集部分を、はっきりラベルにしてしまう

日本の得意芸は、「細分化」と「再構成」にある。

であれば、その“編集部分”こそ主語にしてしまえばいい。

たとえばデニムなら、こう言い換えることができるかもしれない。

ワークウェアとしてのデニムそのものはアメリカが発祥。その一方で、色落ちのパターンに「ヒゲ」「ハチノス」「アタリ」と名前をつけて、経年変化そのものを鑑賞の対象にした文化は、日本で育った。

僕らの文化は、素材そのものではなく、この“遊び方”の部分にある。

「どこまでが輸入元へのリスペクトで、どこからが自分たちの編集なのか」を正しく切り分けられれば、単なる模倣から「自覚的な二次創作」くらいまでは一気に格上げされる。

実務的なチェックリスト

もう少し操作しやすい形に落とすなら、こんなチェック項目を自分に投げてみるといいかもしれない。

✅どこから何を輸入し、どこをどう編集したのか、自分の言葉で説明できるか

✅「本場に近いか」ではなく、「日本の生活や身体感覚にフィットしているか」で評価し直せているか

✅輸入元の名前にぶら下がるだけでなく、自前のラベルや呼び名を試してみているか

✅海外の評価がゼロでも、その文化が日本国内だけで意味を持ちうるかどうかを、一度真面目に考えたことがあるか

✅「これは模倣だ」と引いてしまうのではなく、「この編集された部分はもう日本のものだ」と言い切る覚悟が、ほんの少しでもあるか

このあたりを、自分の好きなモノや状況に一個ずつ当てはめてみると、「どこまで他人任せで、どこから自分のラベルで生きたいのか」がだんだんはっきりしてくる。

観光と語学を、「相対化の道具」として使う

ここまで書いたことを、机の上だけで完結させるのは正直難しい。

やはりある程度は身体ごと外に出ないと、自分の文化の輪郭は見えてこない。

そこで必要になってくるのが、観光と語学だと常々思っている。

1. 観光は「自分の癖を浮かび上がらせる鏡」になる

観光というと、どうしても「名所を見る」「非日常を楽しむ」みたいな話になりがちだが、僕にとって重要なのはそこではない。むしろ、

• スーパー

• 靴屋、古着屋

• カフェ、バー、レストラン

• 住宅街や駅前

のような、ごく日常的な場所を歩いて、

「日本では当たり前だと思っていたあの感覚が、ここには全然ない」

と気づくことの方だ。

たとえば、デニムや革靴を見て回るだけでも、国によって

• どのくらい経年変化を気にするか

• どこまでを「味」と呼び、どこからを「ただの汚れ・消耗」と見なすか

• 何に名前がついていて、何が一括りにされているか

のラインがまるで違う。

そのズレを体感すると、自分が「細分化フェチで、経年変化に過剰にラベルを貼る日本人」であることが、単なる思考のレベルではなく、身体感覚として分かってくる。

観光は、そういう意味で「自分の文化を相対化するための移動」でもあると思う。

2. 他言語を持つのは、「別のカメラ」を一台持つこと

もう一つ大事だと思うのは、たとえ流暢に話せなくとも、何かしら別の言語を持っておくことだ。

これはよくある「英語ができれば便利」とか「仕事で有利」とかいう話ではない。

僕が重要だと思うのは、他の言語を通して、自分の世界の切り分け方そのものを相対化できるという点だ。

例えば、英語で “Japanese culture” とひとまとめにされているものが、日本語の内部では「文化」「伝統」「風土」「空気」「ノリ」といった言葉に細かく分かれていることがある。逆に、英語側にはきちんと区別されているのに、日本語だとまとめてしまいがちなジャンルもある。

それに気づいた瞬間に、

「世界の見え方は、日本語のままでは決まっていない」

という当たり前のことを、やっと実感できる。

だから僕にとっての語学は、外国人とペラペラ話すためというより、

• 外国語で書かれた「日本」や「Japanese ○○」の語られ方をそのまま読み、

そこに貼られているラベルと評価軸を観察するための道具に近い。

旅行が「物理的な相対化装置」だとしたら、語学は「概念的な相対化装置」だ。

この二つを使って、自分の文化の位置とクセを外側から眺められるようになると、「じゃあ自分はどこからどこまでを自分の文化として引き受けるのか?」という問いに、少しだけ具体的に向き合える気がしている。

⭐️最後に現在進行形でこうしたラベリングが行われている、もしくは今後ラベリングが行われていくと思われる身近なモノを列挙する。

もし他にいい例があればコメントに書いて欲しい。

・mont-bellのアウター(記事を書いている最中に既に流行が始まってしまった)

・ナチュラリスティックガーデン

・リクルートスーツ

・ファッションセンターしまむら

・ヤリラフィ

・街角のババア服専門店

※補足

デニムのヒゲやハチノス、アタリを愛でているのは日本だけではない。アメリカや欧州にも raw denim / selvedge denim の界隈があり、whiskers(ヒゲ)、honeycombs(ハチノス)、stacks(裾のシワ)といった用語はちゃんと使われている。しかしそれは現地でもかなりニッチなオタク文化であり、それが一般誌レベルまで浸透し、「色落ちの細部をここまで体系的に語る文化」になっているかというと、やはり日本の方が一歩も二歩も過剰で、その“行き過ぎた細分化”こそが日本的な編集癖のわかりやすい現れだと思う。

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